東京高等裁判所 平成9年(行ケ)321号 判決 1999年1月19日
東京都新宿区西新宿2丁目4番1号
原告
セイコーエプソン株式会社
代表者代表取締役
安川英昭
訴訟代理人弁理士
西川慶治
同
木村勝彦
同
鈴木喜三郎
同
上柳雅誉
東京都千代田区霞が関3丁目4番3号
被告
特許庁長官 伊佐山建志
指定代理人
米津潔
同
松島四郎
同
吉村宅衛
同
小池隆
主文
特許庁が平成8年審判第3637号事件について平成9年10月22日にした審決を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第1 当事者の求めた裁判
1 原告
主文と同旨の判決
2 被告
「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決
第2 請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、平成5年12月1日、名称を「プリンタのインクタンク」とする発明につき、昭和59年特許願第102843号(昭和59年5月22日出願)の分割出願として、特許出願(平成5年特許願第330062号)をしたが、平成8年1月31日拒絶査定を受けたので、同年3月13日拒絶査定不服の審判を請求した。特許庁は、この請求を平成8年審判第3637号事件として審理したが、平成9年10月22日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決をし、その謄本は、同年11月5日、原告に送達された。
2 本願請求項1に係る発明(以下「本願第1発明」という。)の要旨
タンク容器内に多孔質材よりなるインク含浸部材を装填し、該インク含浸部材に含浸させたインクを記録ヘッドに供給する形式のプリンタのインクタンクにおいて、上記インクタンクの底板に、一端が上端面に開口するインク誘導孔を設けたインク誘導部材を、その上端部が上記インクタンクの内部に突出するように結合させたことを特徴とするプリンタのインクタンク。
3 審決の理由の要点
(1) 手続の経緯、本願発明の要旨
本願は、平成5年12月1日の出願であって、本願第1発明の要旨は、前項記載のとおりである。
(2) 引用例
これに対して、昭和60年12月5日に公開された特開昭60-245562号公報(本願の原出願の公開公報であり、本訴における甲第3号証である。以下「引用例」という。)には、
「本発明のインクタンクを用いたインク式ワイヤドットプリンタのヘッドの構成を、第3図のヘッド断面図に従って説明する。
ヘッド上部に着脱可能に配置されたインクタンク2を有する。・・・
インクはインクタンク2内に充てんされた多孔質材からなるインク含浸部材60に含浸されている。インク供給ガイド12は軸方向に延びるインク誘導溝12bを有しこのインク誘導溝12bとタンク充てん材60が接している。・・・インク供給ガイド12の前部に円周状溝12aがありインク誘導溝12bとは内部12cで連結している。円周状溝12aにはワイヤガイド13が組込まれ、・・・インクはインクタンク2からインク供給ガイド12のインク誘導溝(「孔」は誤記と認める。)12b、ワイヤガイド13との間隙A、Bを経てワイヤ11(「1」は誤記と認める。)の先端部まで毛細管力で導かれる。」(2頁左下欄14行ないし右下欄17行)と記載されており、第3図(別紙第3図参板)には、インク供給ガイド12がインクタンク2の底面から突き出た状態の図が、第4図(別紙第4図参照)には、インク供給ガイド12に設けられたインク誘導溝12bの上端がインク供給ガイド12の上端面に開口している状態の図が記載されている。
(3) 対比・判断
<1> 本願第1発明と引用例に記載された発明とを対比すると、引用例に記載された発明における「インク誘導溝」及び「インク供給ガイド」は、本願第1発明における「インク誘導孔」及び「インク誘導部材」に相当し、引用例の第4図の記載から、インク誘導溝12bの上端はインク供給ガイド12の上端面に開口しており、同じく引用例の第3図の記載から、インク供給ガイド12はインクタンク2の底面から内部に突出しているから、両者は、全ての構成要件において一致しており、相違点はない。
<2>(a) なお、審判請求人(原告)は、本件出願は適法な分割出願であるから、出願日が遡及し、引用例は本件出願日前公知の刊行物でない旨主張している。
(b) しかしながら、本願明細書(甲第4号証)の発明の詳細な説明中、段落【0008】や【0016】には、インク誘導部材の上端部がインクタンクの内部に突出するように結合させたので、インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に圧接する旨の記載があり、特許請求の範囲の請求項1に記載された「インク誘導部材を、その上端部が上記インクタンクの内部に突出するように結合させた」という構成要件は、文言どおりの意味の構成要件に加えて、「インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に圧接する」ように結合させた構成要件を包含するものである。
(c) そして、原出願の明細書に「インク供給ガイドがインク含浸部材を圧縮している」構成要件が記載されておらず、当業者にとって自明でないことは、既に決着済み(東京高等裁判所平成6年(行ケ)第212号審決取消請求事件の判決(甲第5号証)参照)である。
(d) 以上のとおり、本願第1発明は、原出願の明細書に記載された発明と同一でなく、また自明でもない部分と、同一である部分とを包含する発明であるから、本件出願は適法な分割出願ではなく、出願日は遡及しないが、引用例(甲第3号証)に記載された発明と同一である部分を包含するので拒絶される。
(4) むすび
したがって、本願第1発明は、出願前公知の刊行物に記載された発明であるから、特許法29条1項3号の規定に該当し、特許を受けることができない。
4 審決の認否
審決の理由の要点(1)(手続の経緯、本願発明の要旨)、(2)(引用例)は認める。
同(3)(対比・判断)のうち、<1>は認める。<2>のうち、(a)は認め、(b)のうち、本願第1発明が「文字どおりの意味の構成要件」を包含することは争い、その余は認め、(c)、(d)は争う。
同(4)は争う。
5 審決の取消事由
(1) 取消事由1(分割出願の適否についての判断の誤り)
審決は、「原出願の明細書に「インク供給ガイドがインク含浸部材を圧縮している」構成要件が記載されておらず、当業者にとって自明でない」(甲第1号証5頁13行ないし16行)と認定し、「本件出願は適法な分割出願ではなく、出願日は遡及しない」(同6頁1行ないし3行)と判断するが、誤りである。
<1> 原出願の当初明細書(甲第2号証)に添付された第1図(別紙第1図参照)のインクタンクは、タンク本体40に符号60で示された多孔質部材が充填して構成されている。そして、原出願の第3図(別紙第3図参照)のインクタンクの内部の白抜け領域は、ここから引き出し線が出されて符号60が付されていて、第1図における符号60で示される領域と同じく多孔質部材で充填されていることを示している(なお、ハッチングを付すことなく部材を特定することは、ハッチングが込み入って視覚的に判断が困難となるのを避けるためにしばしば用いられる手法である)ところ、第3図には、符号12として示されたインク供給ガイドが符号60の領域(多孔質部材)にまで延びた状態で示されている。
したがって、「インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に圧接する」ことは、原出願に開示されていた「インク誘導部材を、その上端部が上記インクタンクの内部に突出するように結合させた」構造に基づいて、当業者が自然に推認できることである。
<2> よって、審決の上記認定、判断は誤りである。
(2) 取消事由2(発明の同一性についての判断の誤り)
審決は、本願第1発明は、「文字どおりの意味の構成要件」(甲第1号証5頁10行)を包含し、「原出願の明細書に記載された発明と・・・同一である部分とを包含する発明である」(同5頁19行ないし6頁1行)と認定するが、誤りである。本願第1発明は、インク誘導部材の上端がインク含浸部材の下面に圧接するよう結合させたものだけを含むものである。したがって、仮に原出願の当初明細書に「インク供給ガイドがインク含浸部材を圧縮している」点が記載されておらず、当業者にとって自明でないとしても、本願第1発明は、引用例に記載された発明と同一ではない。
<1> 本願第1発明は、その要旨によれば、インクタンク容器内には、多孔質材よりなるインク含浸部材が装填され、上記インクタンクの底板に、インク誘導部材を、その上端部が上記インクタンクの内部に突出するように結合させたものであるから、インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に圧接することは明らかである。
<2> 本願明細書の発明の詳細な説明においても、「単に接する」などとは説明されておらず、「圧接する」とのみ説明されているものである。
第3 請求の原因に対する認否及び反論
1 認否
請求の原因1ないし3は認め、同5は争う。審決の認定、判断は正当であって、原告主張の誤りはない。
2 反論
(1) 取消事由1(分割出願の適否についての判断の誤り)について
<1> 原出願の当初明細書(甲第2号証)には、第1図及び第3図のインク含浸部材並びにインク誘導部材に関して、「従来知られているインクタンクの構造の1つに第1図(別紙第1図参照)で示すような、多孔質材等のインク含浸部材をタンク内に充てんする方法がある。」(3頁4行ないし6行)、「本発明のインクタンクを用いたインク式ワイヤドットプリンタのヘッドの構成を、第3図(別紙第3図参照)のヘッド断面図に従って説明する。」(5頁14行ないし16行)、「インクはインクタンク2内に充てんされた多孔質材からなるインク含浸部材60に含浸されている。インク供給ガイド12は軸方向に延びるインク誘導溝12bを有しこのインク誘導溝12bとタンク充てん材60が接している。」(6頁1行ないし5行)と記載されているのみで、従来技術として示された第1図のインク含浸部材60と、原出願の発明として示された第3図のインク含浸部材60との関係及び第3図のインク含浸部材60がそもそもいかなる形状のものであるかについては記載も示唆もなく、また、インク含浸部材60とインク供給ガイド12の相互関係については、上記のように、両者が「接している」と記載されているのみで、「圧接」しているとの記載も示唆もない。
<2> また、上記第3図には、インク含浸部材60がインクタンク内部の領域からの引き出し線によって示されるとともに、インク供給ガイド12がインクタンク2の底面からインクタンク2内部に突き出た状態の構造が記載されており、この状態において、インクタンク2内部のインク供給ガイド12が位置する部分以外の空間がインク含浸部材60によって充填されるものとは推測することができるものの、この第3図の記載からは、インク含浸部材60のそもそもの形状及びインク供給ガイド12がインク含浸部材60に圧接する点を読み取ることはできない。
<3> したがって、上記第3図に、インク供給ガイド12がインクタンク2の底面から突き出た状態の図面として記載されているからといって、インク供給ガイド12がインク含浸部材60に圧接することが、原出願の当初明細書及び図面から当業者にとって自明であるとすることはできない。
(2) 取消事由2(発明の同一性についての判断の誤り)について
本願の特許請求の範囲の請求項1の記載には、その記載の技術的意義が一義的に明確に理解できないというような特段の事情はなく、本願第1発明は、上記請求項1の記載に基づいて認定されるべきであるところ、上記請求項1には、インク誘導部材がインク含浸部材に圧接することのみとする旨の記載はなく、また、インク含浸部材については、「タンク容器内に多孔質材よりなるインク含浸部材を装填し」と記載されているのみで、そのそもそもの形状については何ら記載されていない。
したがって、本願第1発明は、「インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に圧接する」場合と、「インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に単に接する」場合のいずれをも包含する発明であるというべきである。
理由
1 請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、同2(本願第1発明の要旨)及び同3(審決の理由の要点)については、当事者間に争いがない。
2 そこで、原告主張の取消事由の当否について判断する。
(1) 取消事由1(分割出願の適否についての判断の誤り)について
<1> 本願第1発明が「インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に圧接する」ものを含むことは当事者間に争いがない。
<2> 原告は、原出願の当初明細書において、「インク供給ガイドがインク含浸部材を圧縮している」ことは、同明細書に接する当業者にとって自明のことであるから、本願発明の「インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に圧接する」点は原出願の当初明細書に包含された旨主張する。
確かに、甲第2号証によれば、原出願の当初明細書に添付の第3図、第4図(別紙第3図、第4図参照)には、インク供給口41がインク容器40の一方の壁面に偏らせて設けられ、インク供給ガイド12がインク容器40の底面から突き出た状態の図が記載されていることが認められる。
しかしながら、甲第2号証によれば、原出願の当初明細書の発明の詳細な説明には、インク含浸部材とインク供給ガイドの関係について、「インクはインクタンク2内に充てんされた多孔質材からなるインク含浸部材60に含浸されている。インク供給ガイド12は軸方向に延びるインク誘導溝12bを有しこのインク誘導溝12bとタンク充てん材60が接している。」(6頁1行ないし5行)、「インクタンク2は、タンク本体40とタンク本体40の中空部に充てんされたインク含浸部材である多孔質部材60と蓋50とから成る。タンク本体の底面40aの前方にはインク供給口41が・・・開口されている。インク供給口41には、プリンタヘッド本体から突出するインク供給ガイド12の腕部12dが挿入される。」(8頁15行ないし9頁2行)との記載があることが認められるが、これらの記載からは、原出願におけるインク誘導部材がインク含浸部材に圧接するように装填する技術的事項が示唆されていると認めることはできず、他に原出願の当初明細書にはこの点を示唆する記載はない。
また、原出願の当初明細書に添付の第3図には、インク含浸部材60が引き出し線として示されているだけで、インク供給ガイド12に対応するインク含浸部材がいかなる形状のものであるかを確認できる記載はないから、上記説示の発明の詳細な説明の記載内容を併せ考慮したとしても、第3図からインク誘導部材がインク含浸部材に圧接するように装填する技術的事項が当業者に自明のことであると認めることはできない。
なお、甲第2号証によれば、原出願の当初明細書の発明の詳細な説明には、「従来知られているインクタンクの構造の1つに第1図で示すような、多孔質材等のインク含浸部材をタンク内に充てんする方法がある。」(3頁4行ないし6行)と記載されていることが認められ、この記載によれば、原出願の当初明細書添付の第1図(別紙第1図参照)のインク含浸部材60は、従来技術として示されているものであるところ、このインク含浸部材60が原出願に係る発明の実施例として示された第3図(別紙第3図参照)のインク含浸部材60とどのような関係にあるかについて、原出願の当初明細書の発明の詳細な説明には何ら記載されていないから、第1図のインク含浸部材60と第3図の含浸部材60が同一形状のものであると解することもできない。
以上によれば、原出願の当初明細書において「インク供給ガイドがインク含浸部材を圧縮している」ことが当業者に自明のことであると認めることはできず、この点の審決の認定に誤りはない。
<3> したがって、原告主張の取消事由1は理由がない。
(2) 取消事由2(発明の同一性についての判断の誤り))について
<1> 原告は、仮に原出願の当初明細書から「インク供給ガイドがインク含浸部材を圧縮している」点が自明でないとしても、本願第1発明は、インク誘導部材の上端がインク含浸部材の下面に圧接するよう結合させた構成要件のものだけを含むものであり、引用例に記載された発明と同一ではない旨主張する。
<2> 本願第1発明の要旨によれば、インクタンク容器内には多孔質材よりなるインク含浸部材が装填され、上記インクタンクの底板に、インク誘導部材をその上端部が上記インクタンクの内部に突出するように結合させたものであるから、本願第1発明は、インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に圧接することを必須の要件としているものと認められる。
<3> 被告は、本願の請求項1には、インク誘導部材がインク含浸部材に圧接することのみとする旨の記載はなく、また、インク含浸部材については、「タンク容器内に多孔質材よりなるインク含浸部材を装填し」と記載されているのみで、そのそもそもの形状については何ら記載されていないから、本願第1発明は、「インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に圧接する」場合と、「インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に単に接する」場合のいずれをも包含する発明である旨主張する。
しかしながら、「タンク容器内に多孔質材よりなるインク含浸部材を装填し」との本願第1発明の構成要件は、特段の事情のない限り、タンク容器内全体にインク含浸部材を装填することを意味するものと認められるところであり、本願明細書の発明の詳細な説明にも、この解釈を左右するに足りる記載はない。かえって、甲第4号証によれば、本願明細書には、「その目的とするところは、多孔質材に含浸されているインクを、残量の如何に拘わりなく確実に記録ヘッドに供給することのできる新たなプリンタのインクタンクを提供することにある。」(【0004】)、「図2(注 別紙第3図参照)に示したようにインク誘導部材12がインクタンク2内の内部に突入して、その上端面がインク含浸部材60に圧接するように挿入されていて、上端面から軸方向に向けて延びるインク誘導孔12bを介してインク含浸部材60内のインクをヘッドに供給するように構成されている。」(【0008】)、「以上述べたように本発明によれば、インク含浸部材を収容したインクタンクにおいて、ヘッドと連通するインク誘導部材の上端がインクタンクの内部に突出するように両者を結合させたので、インク含浸部材の下面に、インク誘導部材の上端に開口したインク誘導孔を圧接させることを可能となし、インクタンク内のインクがたとえ減少しても、インク含浸部材からインクを常時ヘッドに円滑に供給して、気体の侵入による記録書込みの不良や、インクの供給不良といった不都合を未然に防止することができる。」(【0016】)と記載されていることが認められ、この記載によれば、本願第1発明は、上記説示のとおり、インク誘導部材の上端部をインク含浸部材に圧接させて、インクタンク内のインクが減少してもインクを常時ヘッドに供給するものであることがより明確とされている。
したがって、被告の上記主張は採用することができない。
<4> そうすると、本願第1発明は、インク誘導部材の上端部がインク含浸部材の下面に圧接するよう結合させることを必須の要件としているものであり、インク誘導部材の上端がインク含浸部材の下面に圧接するよう結合させることが記載されていない引用例(前記(1)に認定した原出願の当初明細書と引用例の記載内容は同一である。)に記載された発明と同一ではないこととなるから、同一である部分を包含する旨の審決の認定及びこれを前提とする判断は誤りである。
したがって、原告主張の取消事由2は理由がある。
3 よって、原告の本訴請求は理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条を適用して、主文のとおり判決する(平成10年12月24日口頭弁論終結)。
(裁判長裁判官 永井紀昭 裁判官 塩月秀平 裁判官 市川正巳)
別紙
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